「知的な人と付き合い」と相談を受けたなら、


From:

Stephen S. HANADA

Shinjuku, Tokyo

Sunday, 10:30 a.m.

親愛なる友人へ、

いかがお過ごしですか?

以前、いや、だいぶ前に、ある友人から相談と言うかボヤキを受けました。

知的な人と付き合いたい

私は笑ってしまいそうになり、とりあえず困惑の表情を浮かべることにしました。

具体的にいったいどんな人と付き合いたいのかと聞いてみれば、学歴や知識の量や判断力などなど、色々と条件をあげてくれました。

しかし、それらを全て満たすような人であっても、友人の本当に求める交際相手にはならないでしょうし、逆に、一部しか満たしていない人でも、本当に求めている交際相手になる可能性があることを私は察しました。そして、次のように質問しました。

「知的生命体は知的ではないのですか?」

遠回しで意地悪な質問でした。

私の言う「知的」と友人にとっての「知的」は全く意味が違う、と友人は怒りました。私はその怒っている様が面白くて笑いながら聞きました。

「「知的な」という形容詞や「知性」という単語でもって、何を指しているの? それらは ill-defined ではない?」

友人は怒って部屋から出ました。

友人のほしいものを私が理解できないことが明らかになったからです。そして、当時私が持っていた普段の非礼さを許容していた友人ですら、その非礼を許せないほどに、その欲しいもの、「知的な交際相手」を真剣に考えていたからです。

Only communication can communicate.

このことから学べるのは、コミュニケーションをする主体は人間ではなく、唯一コミュニケーションのみがコミュニケーションをできるということです。

単語の意味、文法規則、語の変換規則、発話・発信、応答と反応の規則、これらさえあれば、人でなくてもどんな生物であっても、また、機械であっても、コミュニケーションをすることができます。それは、それらが持つ知性や能力によるのではなく、コミュニケーションそれ自体の力なのです。

そして、語の意味の違いや規則の違いによって、創造が生まれることもあれば、衝突が生まれることもあるのです。それ故に、コミュニケーションの中にあるものを大事にしなければならないのです。

私も友人もこの点に気づかず、間違いを犯していたのです。

当時の私が犯した 1 つのミスは、テクストを閉じたものとして扱ったことです。「知的な」という形容詞の意味を 1 つに確定して、そこから話を進めようとしたのです。

他方で、友人の犯したミスは、自分の交際相手として「知的な人」というカテゴリーでテクストを閉ざしたことです。自分とは別の架空の存在を作り、そこに条件を放り込んでいったのです。

Only communication can communicate.

テクストを閉ざさず、コミュニケーションを可能にするためには、何をするのが手っ取り早いのでしょうか?

それは、そのコミュニケーションを別の文脈、別のテクストに置くことです。

それだけです。しかし、それが難しいのです。

というのも、ある話を聞いたときや、ある事柄について考えているとき、その文脈の中でコミュニケーションを継続する傾向にあるからです。

そのテクストを超えて、今の枠組みを超えて、別の場に置くべき、ということを考えるようになったのは、チャーリー・マンガーの「世を知る賢者(worldly wisdom)」についての話がきっかけでした。

そもそも、私には「愚かではありたくない」という願望がありました。これは賢くありたいとか称賛されたいとかとは異なり、愚かであることは恥であり、そして罪であり、人がこの世に生を受けてから最も避けるべき状態だと思っているということです。

そういう背景があって、世を知る賢者としての一人である、チャーリー・マンガーのことを追いかけていると、氏が 1994 年に USC Business School での講演で述べたとされる原稿の一部を見かけました。

孤立した事実をただ記憶し、それを思い出すだけでは、本当の意味での知識は得られない」。「格子状の理論の上で(on a latticework of theory)、事実がまとまっていなければ、使える形にはならない」。

これは友人の求める「知的な人」と重なるところもあれば、私の忌避する「愚かさ」についても重なるところがありました。そして、コミュニケーションがなぜコミュニケーションたりうるかについても示唆していました。

ただ覚え、ただ思い出すだけでは、愚かなままです。多くの文脈があり、その中に置かれている一つの事実を、違う文脈、違う枠組みの中で捉え直すこと、それによって知識となり、愚かではなくなり、賢いことである、そして、その"間-テクスト性"にも近い捉え方こそがコミュニケーションの力である、と私は理解しました。

その上で、友人の話に戻りましょう。

私は先日の非礼を謝り、改めて話すために、真摯に考える意志があることを伝えました。友人は快諾してくれました。

友人は「知的な人と付き合いたい」という願望を持っていました。そこでまずは形式的に、「X と付き合いたい」と「知的な人」の部分を変数にしました。さらに「付き合う」というのを恋愛関係という文脈ではなく、家族関係や職場関係、さらにはもっと広い社会的な関係の文脈でも考えました。

そのような多様な文脈において「知的な人」というのはどのような意味を持ち、そのような人はどのような役割を果たし、どのような行動をするのでしょうか? 社会や組織のところでは、計画性や交渉力を発揮するものなどが考えられます。家族においては、教育的なところやギャンブルをしないことなど色々あるでしょう。では、友人が恋愛をしたい相手はどうでしょうか?

話を進めていくうちに明らかになったのは、友人にとって必要なのは、自分とのコミュニケーションをどう設計するかでした。「知的な人」ではなく「自分とこういうやりとりをする設計に fit し、かつ、その関係を一緒に flexible に設計し直してくれる人」でありました。

そして数年が経過し、お互い疎遠になり、そんなことがあったことすら忘れたころ、友人から結婚の報せを受けました。友人の望んだ「知的な人」、いや、友人の望む関係の設計に fit し、かつ、一緒に設計し直す人に出会い、そして、よい関係を継続できるようになっていたのです。

話がだいぶ長くなりましたね。そして、こういう良い話の中で、いきなり私が考えている「知性」の定義について、これから話すのはなんだか微妙ですね。なので、また別の機会に話すことにしようと思います。

Only communication can communicate.

テクストを閉ざさず、愚かにならず、そして、コミュニケーションを可能にし続けるための訓練は、違うテクスト、違う文脈、違う枠組みに置くことを、何度も実践することです。

それだけです。

しかし、そのためには、別の文脈や別の枠組みを知っていることが前提となります。そして、異なる文脈それぞれをつなげられるだけの理解を、それぞれの文脈に対して求められます。

だから、ハードです。

だから、あなたに伝えたいことは、本当に欲しい物があるなら、あなたのその欲しいものを別の文脈に置いて、そして、考えてみることです。

大変な道程だと思います。しかし、熟慮された道程です。

そして、これこそが、愚かさを脱し、worldly wisdom になる道程です。

次回は、その "wise" や「知性」とはなにか、ということについて話そうと思います。

それでは、

青を心に。

Stephen S. Hanada

"Gentleman Philosopher"

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