教える気持ち良さは気持ち悪い


From:

Stephen S. HANADA

Shinjuku, Tokyo

Sunday, 09:31 a.m.

親愛なる友人へ、

いかがお過ごしですか?

10年以上前、大学生だった私は教育実習のために二週間高校にいました。そして、高校公民の免許を取るために行った高校で、気持ち悪い体験をしました。心霊的なものではなく、人の心理に関する気持ち悪さです。

生徒たちは、数年前に高校を卒業し、まだ卒論すら書いたことのない学生たちに向かって「先生」「先生」と言うのです。そう言われたとしても、恥じることのないように勉強と訓練をしてきたとは言え、私を含む教育実習生らはそう言われることに興奮を覚えていました。教えること、そして、教える側に立つことは、とても気持ち良いです。しかし、私は

気持ちよさを感じる自分に対して

気持ち悪さを感じていました

。これの理由はその時は分かりませんでした。しかし、その不快感は根強く、結局、教員になる道を選ぶことはありませんでした。

人間は真似ることと教えることが得意です。そして、真似たり教えたりすると脳内快楽物質が出ます。それは、人間が種としてここまで生存してきた過程において、そうではなかった個体が淘汰された結果でしょう。もちろん、教師という職業、教育・学習・模倣という活動、これら自体は悪いものではありませんし、気持ち悪いものでもありません。快楽物質およびそれが出ることについても同様の評価です。しかし、その快楽物質の裏にあるものが気持ち悪いのです。

そもそも教えることが成立するためには2つの要素が必要です。1つは、情報の非対称性です。教科書の内容や、何が重要なのか、教科教育として何を考えさせるべきかを知っているのは教師の側であり、生徒らはそれらを知りません。なお、教育に限らず、広告や営業、プロダクト開発、いずれにおいてもこの非対称性はあります。

そして、もう1つの要素が、バイアスです。教師からなら教えてもらっても良いと、生徒や保護者や社会、そして教師自身がそう思ってしまうのは、名声や成功といったバイアスがあるからです(生徒が教員を選択したのではなく、役所が選んでいるだけであることを忘れてはいけません)。教えられる側だけではなく、教える側もそのバイアスの影響下にあり、そのバイアスを用いて教えています。教育をすることと、教師-生徒の関係は、バイアスありきなのです。

以上のことから、私が教えることの気持ちよさを感じることに気持ち悪さを感じていた理由や原因の1つとして、情報の非対称性とバイアスの存在が考えられます。しかし、もしそれが原因や理由であるとするならば、似たような情報の非対称性とバイアスのある他のものに対しても不快感を覚えるはずではなかろうか、と疑問に思いました。そして、事実、私は多くのものにたいして不快感を覚えています

広告というものも、情報の非対称性のあるところで、成功バイアス、名声バイアス、技術バイアスを駆使しています。カーペンター監督の『ゼイリブ(They Live)』で描かれた世界を、私はSFではなく現実のものと見てしまっています(†1)。これらに対して、私は確かに不快感を覚えています。

そして、広告や炎上において、私が不快感を示す対象の1つがシグナリングです。就職活動でも恋愛でも広告でも、実際に利用するまで本当にその価値があるかどうかわからないのに、各種の魅力(および汚点)を開示する行為です。これはある種の特権であり、権威主義に近いものです。このような観点からすれば、情報の価値が分からない人から注目を集めさせる広告および広告主やインフルエンサーと、ほとんど経験したことのない生徒に教える教師やその教員免許との間には、何ら違いはないようにも思えます。

もちろん、バイアスなしで生きることなど到底不可能に近いことです。人類がここまで生き残ってきたのは、二重遺伝理論(dual inheritance theory)が言うように、遺伝子の継承と、技術や知識の継承という、二重の遺伝・継承のおかげです。そこには、人、知識、技術の淘汰、シグナリングをした存在の淘汰、加えて、そこにあるバイアスの淘汰がなされたことによります。

しかし、そのバイアスに無自覚な環境およびそこに居ることに対して、私は不快感を覚えます。それは、国家が消失するかもしれないという不安によるものものありますし、バイアスすらも早く淘汰しなければ生き残ることが難しい状況であると信じているからでもあります。

バイアスを早くに淘汰する方法はあるのでしょうか。集合知理論が完成すれば、ニュース番組やインフルエンサー、教育機関が不要になり、バイアスが淘汰されるかもしれません。しかし、集合知理論を用いた技術や仕組みが万人に提供される見込みはまだありません。21世紀の前半、21世紀の第二クォーターを生きる私には、バイアスに自覚的になり、対立するバイアスをぶつけ合うことくらいしか思いつきません。

そのためには、教えるだけ、学ぶだけ、どちらか一方だけでは駄目で、両方が必要。そして、教え合いと学び合いの両方が必要で、それを他者との相互関係においても、自己の中においても必要であるということは分かっています。これらを通して、バイアスを意図的に早期に淘汰させるのです。

もし、あなたが解決策や解決案をご存知でしたら教えてください。

それでは、

青を心に。

Stephen S. Hanada

"Gentleman Philosopher"

†1: 『ゼイリブ』の世界観はヤッピーたちが跋扈していた時代に対する批判で、最近の人たちがユダヤ陰謀やネオナチ陰謀を唱える際に『ゼイリブ』を引き合いに出すのを見かけますが、論証をしっかりしていないからおかしくなっていることが多々あります。そして、『ゼイリブ』と現実で何よりも違い、そして私が不満を持っているのは、プロレスが街中でほとんど行われていないことです! 時々新宿とかでプロレスの青空興行が行われているのは救いですが、『ゼイリブ』は96分の映画の中で6分もプロレスをしているのに対して、現実世界では戦争や強盗ばかりでプロレスはほとんどありません。ゼイリブのメタな批判もまた面白いので、まだ未視聴の方はご覧ください。

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