親愛なる友人へ、
いかがお過ごしですか?
「右足を出す」「左足を出す」「右足を出す」「左足を出す」
私は歩きながら、自分の動作を口にしていました。外だったので、口の中でもごもごと呟いていました。
「右足を出す」「左足を出す」
「歩く」という身体の動作を記述していくうちに、違和感に気づき、私は「違和感を感じた」と記述しました。
「右足を出す」「左足を出す」
徐々に、違和感の正体が分かってきました。これらの記述は実は不正確かもしれないということ、つまり、筋肉を使うのは逆の足だと気づいたのです。
「左足に力を入れて、右足を前に出す」「右足に力を入れて、左足を前に出す」
さらにどんどん記述は変わっていきます。冗長さを減らすために、「右足を出す」ことの記述の変遷を見ていきましょう。(記述に追加された箇所に下線を引いています)
「右足を出す」
「左足に力を入れて、右足を前に出す」
「左足に力を入れて、体の重心を前にずらし、右足を前に出す」
「左足に力を入れて、体の重心を前にずらし、右足を前に出し、右足裏に地面の感触を覚える」
「左足に力を入れて、体の重心を前にずらし、右足を前に出し、右足裏に地面の感触を覚えて、左足の力を抜く」
「左足に力を入れて、体の重心を前にずらし、右足を前に出し、右足裏に地面の感触を覚えることを予期して左足の力を抜き始め、右足裏に地面の感触を覚えて、左足の力を抜く」
これが、私が行った「右足を出す」という身体動作に関する多少適切な記述です。
前回のメールの末尾で、次回は Public Announcement について話そうと思っている旨を伝えたかと思います。しかし、申し訳ないですが、今回はそれについては話しません。
というのも、Public Announcement の重要な要素を満たすためには、何かを伝えるよりも前に、正確に事実を記述する必要があるからです。そして、この当然のことを伝えることを忘れていたことに気づき、そして伝えなければと思ったからです。
正確に記述することは重要です。おそらく、正確な記述は全ての土台となるものでしょうし、正確な記述なしでは私達は何もなし得ないでしょう。
仕事に関係するような語句を使えば、課題やプロジェクトやイシュー、これらは、そもそも正確に記述できていなければ、共有しても何も前に進まないでしょう。特にこれら、課題やプロジェクトやイシューは生きているものであり、最初の時点で正確に記述できていなければ、尚更のことです。
正確な記述が必要であるというのは、なにも現代の SNS やニュースや働き方に限った話ではありません。人は共有することを急ぎすぎてしまいます。急ぎすぎるあまりに、事実の一側面だけを見たり、選択肢のメリットかデメリットかのどちらか一方だけを見たりして、それで満足してしまいます。
共有を急ぎすぎてしまう点について、どうすればよいのでしょうか。ヤコブの手紙 1 章 9 節に次のように書かれています。(聖書協会共同訳より引用)
人は誰でも、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。
話したくなる、共有したくなる、そう感じた時には、まず堪えること、これが一番の近道かもしれません。堪えて何をするのか。よく聞くこと、そして、正確に記述することです。
さて、私がこの「正確な記述」を、共有より前にすべきであり、そして、共有よりも重要であるということを認識するに至ったのは、次のような経緯です。
私の研究対象には宗教も入っています。そのため、かつて、仏教についても調査していました。仏教には、伝統的な要素や死生観などといった多くの日本人にとって馴染みのあるもの以外にも、理論的な要素や実践的な要素があります。その実践的な要素として、瞑想があります。この瞑想について、私も自ら実践を通して学んだことがあります。
茶道をしていた時期は、毎日座禅をし、自分の呼吸に集中し、呼吸を数えることをしていました。呼吸以外に意識を向けないという意味での集中することや、呼吸を意図的にコントロールして一定にすること、など、難しいことが徐々にできるようになっていくことは楽しく、また、心の平穏も得られて良かったです。
しかし、座禅というのはいわゆる集中(サマタ)瞑想であり、仏教における瞑想の一つでしかありません。もう一方の瞑想とよく言われるのが、自分を客観する洞察(ヴィパッサナー)瞑想です。前者が一つの明確な事柄に対して注意の焦点を向けるのに対し、後者は自分の身体、記憶、思考、感情、その時に現れるありとあらゆるもの全てを注意の対象とし、観察します。
何故、瞑想が Gentleman Philosopher として大事なのでしょうか。
それは、私達がしばしば物事の上辺だけを見たり、色眼鏡をかけた状態で物事を判断したりしがちだからです。このような上辺の判断や色眼鏡は、哲学や人生や仕事の助けにならないどころか、後退させるものです。
歩くという動作一つをとっても、ただ「右足を出す」という言葉だけでは事実を無理に単純化しています。実際は、多くの筋肉が使われ、重心の移動があり、外部との交流があり、予測があり、と、これらが多様に関わって成り立っているもの、ということが冒頭の文章からも見えたでしょう。
また、例えば「自分が嫌い」という性格は、ただ上辺をなぞったものです。この性格の一例を正確に記述すれば、「自分が好きな自分を、もし自分が好きな他人が嫌ったら、自分はショックを受ける。自分はショックを受けたくない。だから、先に自分を嫌う要素を見つけておいて、ショックを受けないようにしておこう」という歪な自己愛になります。
この正確な記述が、どうして共有よりも優先されるのでしょうか。それは、私達が共有することによって何を望んでいるかによります。私達が望んでいるのは、次のアクションであったり、次のアクションのための議論であったりします。しかし、真なる事実(true fact)を伝えなければ、私達の議論が妥当であったとしても、真っ当な結論には至らないでしょう。客観的で正確な記述でなければ、それは真実(truth)にはなり得ず、結果、私達が望むものは手に入りません。だからこそ、上辺だけを見ず、色眼鏡をかけず、客観的で正確な記述をする必要があるのです。
では、正確な記述によって、どういう変化が起きるのでしょうか?
冒頭の歩き方の例を続けるなら、「左足を出す時に右手を出すことを難しく感じるようになる」という変化が私には起きました。正確に言えば、左腰を前に出す時は左肩を前に出すこと、つまり、肩と腰とが並行であり続けることが自然であると認識するようになりました。これは、歩くというのは、足だけではなく、身体全体を使った動作であると認識し、正確に記述したことによります。
身体ではなく、心の方面で起きた変化としては、分からないことを分からないことであると認識できるようになりました。以前のメールでもお伝えしたように記憶していますが、この認知能力を明確に意識しだした時期は、無知は罪ではないという教えを受けた時期や、知れば知るほど知らないものが増えてきた時期と重なるので、これらの間には相乗効果があったのかもしれません。いずれにせよ、知らないことや分からないことを、「きっとこれに違いない」などと思い込もうとした時に、「私は思い込もうとしている」と自己の記述をできるようになったことによって、知らないことを知らないことと、分からないことを分からないことと、認識できるようになったのです。
このような客観的で正確な記述をする能力を得るために私がしたことは、既に述べたような集中瞑想と洞察瞑想を繰り返すことでした。
1 日に 5 分ほど集中瞑想をしました。1 日に 5 分ほどゆっくり歩きその動作を観察し記述しました。
集中瞑想や洞察瞑想については多くのガイドやインストラクションがあり、また集中瞑想についてはあなたも実践したことがあるかもしれませんので、ここでの詳細な説明は控えます。代わりに、洞察瞑想で私がポイントだと思っていることを伝えます。それは、違和感や疑問を覚えたのなら、「違和感を覚えた」や「疑問だと感じた」と言うことです。それは、動作についても、思考についても、欲求についても、いずれについてもです。観察し、記述する中で、もし気づいたことがあるのなら、まず「気づいた」と言葉にしましょう。そこから深くに進めます。
是非、集中瞑想か洞察瞑想、いずれかをやってみましょう。
しかし、瞑想はハードです。しかし、正確な記述はもっとハードです。自分の見たくないものを見ることになり、その上、それを明らかにすることになりかねません。しかし、Deliberate な方法です。
正確な記述に基づく、確かな事実がなければ、私達は前に進むことができません。
何かを伝えたくなった時、急いではいけません。まずは、正確に記述しましょう。
そして、真実であるものを伝え、それが真実であると認識され、お互いにそれを真実であると認識していることを認識している時に、私達は前に進めます。この前に進むための、伝達と認識とメタ認識が Public Announcement によるものです。その前提となるのが真実であり、正確な記述を土台とするものです。
次回こそは、Public Announcement について話せればと思います。
それでは、
青を心に。
Stephen S. Hanada
"Gentleman Philosopher"